おばあちゃんへ

誰も見ていないと思うので、ここに書こうと思います。

今日おばあちゃんが亡くなりました。

89歳。

この間誕生日を迎えたばかりでした。

海外にいると、ましてやこのコロナ禍で簡単には帰国できないのが悔しいです。

 

思えば、僕はおばあちゃん子でした。

共働きの両親が日中いない間に僕と弟の面倒を見てくれました。

電車を見たがった僕を川沿いの公園までおんぶして連れて行ってくれたことを覚えています。

おばあちゃんの真似をして、お茶と梅干しと時代劇を見ながら、こたつに入って両親が帰ってくるのを待っていました。

昼寝した後、おばあちゃんが買い物でいなくなって、泣きながら外でおばあちゃんを呼んだこともありました。

 

おばあちゃんの作るカレーが好きでした。

カレー粉とバターで作るカレーは市販のカレーと違って、ちょっと粉っぽかったけれど、美味しかった。

当時やっていたおもいっきりテレビの影響を受けた献立が夜に並びました。

僕は好き嫌いがたくさんある子供だったので、よく泣きながらご飯を食べていました。

 

おじさんとは仲が悪くて、よく喧嘩していました。おじさんがお寿司屋さんを継いだ後、何度か揉めているのを見ました。喧嘩を見て大泣きしたのを覚えています。

 

家の少し先に畑を借りて、野菜を育てていました。焚き火をして、焼き芋を作って、その煙が近所の人から迷惑だと怒られました。今だと当たり前ですが。

畑にいく際に、弟をおぶい紐でおぶおうとした時に落として、弟を骨折させたこともありました。それから弟はおばあちゃんに近づかなくなりました。

 

おじいちゃんのお墓参りによく一緒に行きました。京急に乗って三崎口まで。おばあちゃんが作ったしそのおにぎりが大きくてしょっぱくて僕はあまり好きではありませんでした。味噌のおにぎりが好きでした。帰りに畑に捨ててある、大根とかキャベツとか、スイカをもらって帰りました。もったいないが口癖でした。

 

俳句が好きな人でした。学校に行っている間、会合に行っているようでした。

百貨店の外商さんもたまにきていました。その人について、絵の販売会と昼食会に行きました。初めて食べる外国の料理でした。絵は買いませんでした。きっとお寿司屋さんの時の繋がりがまだあったと思います。

 

一度めちゃくちゃ怒られたこともありました。当時ビーダマンが流行っていて、どうしても僕は買って欲しいと親にもおばあちゃんにも言えなかった。たまたま百円が机の上に置いてあったので、それでガチャガチャをしました。

案の定バレて、とてつもなく怒られました。当たり前。

 

中学生になったら、おばあちゃんの家に行かなくなりました。

自分で家に帰れるようになったからです。たまにしかおばあちゃんの顔を見なくなりました。

高校生になって、もっと会いに行かなくなりました。

大学生になって、おばあちゃんが1人でお墓参りに行けなくなったので、家族で車で行きました。段々とアルツハイマーの症状が出てきたのはこのときだったと思います。

毎食ちゃんと作る人だったのですが、段々とコンビニご飯になって、久々に会いに行ったら、唐揚げを何個もコンビニで買っていました。子供の時は絶対買ってくれなかったのに。ずるい。

 

よく家に電話がかかってきて財布がない、泥棒が入ったと言うようになりました。

探しにいくと、思いもよらないところから出てきました。

何度も話をして、置いとく場所を決めましたが、だめでした。

怒鳴り散らされたこともあって、変わりように悲しくなりました。

 

大学生になってから、おばあちゃんは施設に入りました。

段々と僕のこともわからなくなりました。だあれ?なんて言われたら悲しいですよね。

それから僕はおばあちゃんに会うのが怖くなりました。あの強くて優しくて時々怖かったおばあちゃんが衰えていくのを見るのが怖かった。

バイクの免許を取ってからは、薬を届けにいくぐらいでした。たまに親についてちょっと様子を見にいくと、もう別人でした。

 

社会人になると年に1回ぐらいしか、会いに行かなくなりました。ごめんね、だって怖かったの。

結婚した報告も、海外赴任になることも直接言えませんでした。もうわからなくなっていたからと自分に言いきかせてきました。

だめな孫でごめんね。